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二巻 元ネタ・宗教用語

第9話   ブッダはベジタリアン  釈迦在世のころの戒律では肉食を禁じていません。  そののちも「自分のために殺された」ような不浄の肉でなければ食べられるとするような、  一切の肉食を禁じているわけではない戒律がある程度です。  釈迦自身が豚肉にあたって亡くなったという説もある程ですから、  ベジタリアンであったとは断定できません。  釈迦自身のことはともかく、肉食を禁じることに賛成はしていなかったようです。  また逆にイエスがベジタリアンであったという説もあります。    聖ニコラウス  サンタクロースの起源となった人物。司教、神学者。  一度破門されるが、イエスキリストと聖母マリアの幻が現れ、  潔白が証明されたために破門がとかれたという伝承もある。 (これに由来し奇蹟者の称号をもつ)  まずしい娘に持参金を恵んだことから発展し  サンタクロースがうまれたという説がある。  イエスの見た目年齢  荊の冠をかぶっていることから磔刑のころの見た目だとすれば、30代です。

第10話 

第11話   イエスが病人を治す  ・重い皮膚病を癒す(「マタイ」第8章1~4、「マルコ」第1章40~45、「ルカ」第5章12~16)  ・百人体調のしもべの中風を癒す(「マタイ」第8章5~13, 「ルカ」第7章1~10, 「ヨハネによる福音書」第4章43~54)  ・ペトロの家のしゅうとめと、悪霊に取り付かれた者大勢を癒す(「マタイ」第8章14~17、「マルコ」第1章29~34,「ルカ」第4章38~41)  ・悪霊に取りつかれたガダラ人を癒す(「マタイ」第8章28~34 「マルコ」第5章1~20 「ルカ」第8章26~39)  ・イエスの町で中風の人を癒す(「マタイ」第9章1~8 「マルコ」第2章1~12 「ルカ」第5章17~26)  ・12年間も出血の止まらない女が、イエスの服に触れて病気を治してもらう。及び、死んだ少女を生き返らせる。  ・二人の盲人を癒す(「マタイ」第9章 27~31)  ・口の利けない人を癒す(「マタイ」第9章 32~34)  ・「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国(みくに)の福音を宣(の)べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(マタイ第9章35)  ・手の萎えた人をいやす(「マタイ」第12章9~14、「マルコ」第3章1~6、「ルカ」第6章6~11)  ・ガリヤラ湖のほとりで大勢の病人をいやす(「マタイ」第15章29~31)  ・悪霊(てんかん)に取り付かれた子どもをいやす(「マタイ」第17章14~20、「マルコ」第9章14~29、「ルカ」第9章37~43)  ・二人の盲人をいやす(「マタイ」第20章29~34、「マルコ」第10章46~52、「ルカ」第18章35~43)  (情報提供:二階建ての図書館さん)  看病したことがないイエス  病人がイエスの服に触れただけで病気が治るという逸話より。  (情報提供:二階建ての図書館さん)  三途の川  三途の川はもともとは仏教とは関係なく、  民間信仰がまじってうまれた概念。  釈迦と鹿  釈迦がはじめて説法をしたという聖地サールナート。  このはじめての説法の相手が森にいた5頭の鹿だったとされています。  (また、別では5人の修行者と、鹿たち、とも言われています)  この鹿は釈迦と以前に苦行をともにし、  釈迦が苦行を捨てたことをとがめていましたが  釈迦の神々しさにひれふし弟子になったとされています。    一週間  旧約聖書の創世記において、世界は一週間で作られたとされています。  1日目 原始の海の表面に混沌とした暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。  2日目 神は空(天)を作った。  3日目 神は大地を作り、海が生まれ、植物が出来た。  4日目 神は太陽と月と星を作った。  5日目 神は魚と鳥を作った。  6日目 神は獣と家畜と、神に似せた人を作った。  7日目 神は休んだ。  

第12話   ブッダの誕生  母摩耶(マーヤー)が実家に帰る途中、ルンビニの花園で休んでいたさい  花(またはサール。これらは北方伝・南方伝で異なる)をたおろうとしたところ  右脇から生まれたとされている  これはインドの聖典リグヴェーダにおけるプルシャの歌で  プルシャを解体したとき、両腕からラージャニア(王族・武人階級)が生まれたところから、  この階級の出産は脇から生まれたと表現されることによっている。  第12話 ベツレヘムの流れ星  ベツレヘムの星。  東方の三博士を誕生したイエスのもとに導いた星のこと。 (情報提供:よしやさん)  ゴルゴタの丘  イエスが磔刑された場所。  ちなみに本編の坂道には 『BAR 悲しみの道』 (ヴィア・ドロローサ,ゴルゴダの丘へ向かう坂道)が描かれている。(拍手より情報提供ありがとうございました!)  600年ぶり  1400年ごろには教会大分裂が発生しました。  ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立ち、  カトリック教会が分裂してしまったことを指します。  正確には1378年から1417年の間です。  また、1337年から1453年の間にはフランスとイギリス間で百年戦争という長期にわたる戦争が起きました。  1340年代にはペストが流行し、ヨーロッパは踏んだり蹴ったりの時代を過ごしています。  600年ぶりに走ったというのはたぶん、カトリック教会が分裂したことで、離れた二つの地を行き来したことを指すのだと思いますが、  このヨーロッパの混乱すべてが含まれているのかもしれません。  Tシャツの顔  ベロニカのヴェールに基づく。  ベロニカはゴルゴタの丘を十字架を背負い歩くイエスを憐れみ、  汗を拭くように自らのヴェールをさしだした。 (ゴルゴタの丘とは、キリストが十字架に磔にされる地)  キリストはその申し出を受けて汗を拭き、彼女にヴェールを返した。  するとヴェールにはキリストの顔が浮かび上がるという奇蹟がおきた。

第13話   29歳  ブッダは生まれたとき「世界の王」になるか「出家」をすると占われていた。  父であるシャーキア族の王は「出家」をさけるために  ブッダが世界に幻滅しないよう、満ち足りた生活をおくらせ、  老人や病人を近づかせず、死や老いも知られないようにする。  しかし29歳のとき、ブッダは城外の祭りに興味を持ち出かけた。  用意された整われた道を馬車にのっていたが、予想外にも老人がブッダの目に留まった。  老人を知らなかったブッダはそこで老いを知った。  そして次に突然ブッダの前に死を悲しむ人が現れた。  突然の死だったためブッダから隠すことはできず、ブッダは死を知った。  そしてさらに出家僧が馬車を横切った。  運命としか思えないこの3つの出会いが一日にして起こったのだ。  ブッダは出家僧という「超えた物を求める修行者」に大変な興味を持った。  これは可能な限り贅沢を与えられてきたブッダにとって、それを超えるものに興味を持つことは  皮肉にも当然のことだったのだ。  そうしてブッダは出家の意思をかためた。  子供の姿をみてしまっては執着ができてしまうし、  妻にすがられては出家を貫き通すことができないとおもったブッダは  夜のうちに城をぬけだした。  という説明だったのですが、まだむずさんよりさらに詳しく、一部訂正していただいたメールをいただいたので、掲載いたします。  カピラヴァスツ城には東西南北と4つの門があり  シッタールダが家来を連れて外に遊びに行く時に  最初に東の門から遊びに行こうとするとそこには老人がいましたと  東の門で老人をはじめて見たシッタールダは、家来に『あれはなんだ』と聞き  家来は『あれは老人です』と答え  更にシッタールダ『私もああなるのか?』と聞き  家来は『人間何れは誰でも年をとります』と答え  それを聞いたシッタールダは恐ろしくなりその日はお城に帰ってしまいます  また日を改めて遊びに行こうと家来を連れ  前回東の門で老人を見てしまった恐ろしさに今度は南の門に行くと病人に会う  病人をはじめて見たシッタールダは、家来に『あれはなんだ』と聞き  家来は『あれは病人です』と答え  更にシッタールダ『私もああなるのか?』と聞き  家来は『人間何れは誰でも病にかかります』と答え  それを聞いたシッタールダはまた恐ろしくなりその日はお城に帰ってしまいます  また日を改め今度は南の門で病人をみた恐ろしさに  今度は西の門に行くと死者(葬儀中)に会う  葬儀をはじめてみたシッタールダは、家来に『あれはなんだ』と聞き  家来は『あれは死んだ人を葬る儀式です』と答え  更にシッタールダ『私もああなるのか?』と聞き  家来は『人間何れは誰でも死ぬ時がきます』と答え  それを聞いたシッタールダはまた恐ろしくなりその日はお城に帰ってしまいます  西の門で死者を見た恐ろしさに今度は残された北の門に行くと出家者に会います  今度はの北の門に行くと今度は出家者(修行僧)に会います  出家者(修行僧)をはじめてみたシッタールダは、家来に『あれはなんだ』と聞き  家来は『あれは出家者(修行僧)です』と答え  更にシッタールダ『私もああなるのか?』と聞き  家来は『人間誰でも出家者になる事ができます』と答えたと  いままで自分の知らなかった老・病・死と言うのを垣間見て  その恐ろしさを知った最後に出家者をみたシッタールダは、出家の道を考えたと言う事だそうです  この出来事を四門出遊と言ってます ちなみにこれが一日のうちに起きたか、日を置いておきたかは諸説あるそうです。 (情報提供:まだむずさん)  アガペー  キリスト教用語。神の人に対する愛。  無償の愛、見返りを求めない愛、という意味もあるそうです。(情報提供:まるさん)  ぽむぽむ地蔵  たぶん、ポムポムプリン(@サンリオ)  NHKのクレイアニメ「ナッチョとポム」のポムではないかという情報をいただきました。(情報提供:子持ちさん  海を静める  マルコ4:35−41  その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。  そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。  ほかの舟も一緒であった。 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。  しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。  弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。  イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。  すると、風はやみ、すっかり凪になった。  イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」  弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。  風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

第14話   バベルの塔  創世記11:1−9  世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。  東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。  彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。  石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。  彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。  そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。  主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。  「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、  このようなことをし始めたのだ。  これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。  我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、  互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」  主は彼らをそこから全地に散らされたので、  彼らはこの町の建設をやめた。  こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。  主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、  また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。  バチカン  ローマ教皇庁によって統治される、  カトリック教会と東方典礼カトリック教会の中心地。  上段を殴られたら中段をも差し出しなさい  右頬を殴られたら左頬をも差し出しなさい    蜘蛛の糸  芥川竜之介「蜘蛛の糸」  ある日の朝、釈迦は極楽を歩いていた時に蓮池からはるか下の地獄をふと覗き、  地獄の罪人のカンダタを見つける。  カンダタは生前、様々な悪事を行った為に地獄に落とされていたのだが、  「いくら小さな蜘蛛といえど命のあるものに違いない。  その命を奪い取るということはいくらなんでもかわいそうだ」と思い、  小さな蜘蛛を助けた事があった。  そこで釈迦は地獄の底のカンダタを極楽への道へと案内するために、  一本の蜘蛛の糸をカンダタに下ろす。  カンダタは極楽から伸びる蜘蛛の糸を見てとても喜び、  「これで地獄から脱出できるばかりか極楽に行けるかもしれない」と考える。  そこで蜘蛛の糸をつたって、地獄から何万里も上にある極楽へと上り始めた。  ところが糸をつたって上っている途中でふと下を見下ろすと、  数限りない地獄の罪人達が自分の下から続いてくる。  このままでは糸は重さによって切れて落ちてしまう。  カンタダは「この蜘蛛の糸は俺のものだ。  お前達は一体誰に聞いて上ってきた。下りろ、下りろ」と喚く。  自分だけが地獄から抜け出そうとするカンダタの無慈悲な心が  釈迦には浅ましく思えたのか、次の瞬間蜘蛛の糸が、  皮肉にもカンダタのぶら下がっている所から切れてしまう。  愚かなカンダタは再びに地獄に堕ちてしまった。  (wikipediaより)  人はパンのみに生きるにあらず  ルカ4:1−  さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。  そして御霊に導かれて荒野におり、四十日間、悪魔の試みに会われた。  その間何も食べず、その時が終わると、空腹を覚えられた。  そこで、悪魔はイエスに言った。 「あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。」  イエスは答えられた。  「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」  マタイ:第4章 第4節  人はパンだけで生きるものではない。  神の口から出る一つ一つの言葉で生きる  (情報提供:二階建ての図書館さん)  よくぞ悪魔(マーラ)を退けましたねイエス!  ブッダが苦行を中止し、瞑想を始めた頃の話。  瞑想中にマーラが襲い掛かってくる。  マーラは欲界を支配する悪魔。  つまりマーラとは欲望や煩悩のことで、様々な欲望が瞑想を妨害する。  ブッダはあらゆる悪魔の誘惑や脅迫を克服した(これを『降魔』という)。  強い意志と慈悲により降魔を成し遂げたブッダは、悟りを開いて「仏陀」となった。  悟りを開くことを「成道(じょうどう)」という。ブッダの成道は35歳のときで、出家から6年が経っている。 (出典 佐々木宏幹「図解雑学Q&Aやさしくわかる仏教」(2006年 ナツメ社)) (情報提供:二階建ての図書館さん)

第15話   最後の晩餐  ヨハネ13:1−13  さて、過越祭の前のことである。  イエスは、この世の父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、  世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。  夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、  イエスを裏切る考えを抱かせていた。  イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、  また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、  食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。  それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、  腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。  シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、  「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。  イエスは答えて、「わたしのしていることは、  今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。  ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、  イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、  あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。  そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」  イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、  足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけでない。」  イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。  それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。  さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、  上着を着て、再び席に着いて言われた。  「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、  わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。  わたしはそうである。ところで、主であり、  師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、  あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。  わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、  模範を示したのである。はっきり言っておく。  僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。  このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。  わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。  わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。  しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という  聖書の言葉は実現しなければならない。  事の起こる前に、今、言っておく。  事が起こったとき、『わたしはある』ということを、  あなたがたが信じるようになるためである。はっきり言っておく。  わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、  わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 inserted by FC2 system